あなたに花を、星には願いを - 3/3

 ずいぶんと膨れた鞄を持った青年が、人目もはばからず仄暗いパールレーンを颯爽と駆け抜けていく。
 治安の悪い裏路地では格好のカモのようにも思える姿を、しかし狙おうとする者などここには誰もいない。――その人が、エオルゼアを、イシュガルドを、帝国属州すらも救った英雄であることを知っているからである。
 そんな彼が目指すのはその先、華やかに着飾られたマネキンが立ち並ぶ通路の向こうにある裁縫師ギルドだ。
 重い扉を開けて入ってきた青年を見るや否や、ギルドの人員がこぞって顔を明るくする。その中でもとくに表情を輝かせたのは、ギルドマスターであるレドレント・ローズだった。

「あら、セイアッドちゃんじゃない! 久しぶりね!」
「ローズさん! 元気にしてた?」
「それはこっちのセリフよ! この前、新しい染料を開発するのに錬金術師ギルドへ行ったのだけれど、そこでセヴェリアンさんとあなたの話になったのよ」
「へええ、どんな?」
「……賢人のみんなが倒れた頃、あなた死にそうな顔をしてたって言うじゃない?
 それにちょっと前、ずいぶん青白い顔をしてたから……彼ったら、優秀な助手を失ったら困るって嘆いてたわ」
「ちょっと前? ローズさんに会ったのは今日が久々のはずだけど」
「異世界から戻ってきた、とか何とか聞いた頃よ。私はたまたまサファイアアベニューで見かけたのだけど、他の人も心配していたわよ?」
「ええ……そんなに顔色悪かったかなぁ……?」

 あのセヴェリアンが自分の身を案じていたことも驚きだが、まさかノルヴラントに夜を取り戻して一度帰ってきたときすらも、そこまで言われるほどの顔色をしていたとは。
 まったく自覚がなかっただけに、セイアッドはううん、と唸りながら腕を組む。
 確かに、第一世界では光に全身を蝕まれて指ひとつ動かすことすら億劫な状態ではあったが、膨大な闇のエーテルとぶつかり合ったおかげで相殺され、無事元の身体に戻ったのだ。その後はクリスタリウムに戻って気を失うように眠っていたから、それで回復しきったつもりだった。
 そこから目覚めた際も、『暁』の癒し手たちは元より、水晶公まで巻き込んで治癒合戦になったのも記憶に新しい。
 眉根を寄せ、難しい顔で思い当たる節を探すセイアッドの姿に小さく笑いながら、ローズは手を差し出した。

「まあ私から見れば、顔色が悪かった、っていうよりは……そうね。
 立ち話もなんだから、ここの奥の部屋でお話ししましょう? ほぼほぼ倉庫みたいだけれど、私の休憩室でもあるの。お茶くらいは出せるわ」
「え、いいの? っていうかローズさんに見せたいものと相談があって来たんだよ、ちょうど良かった!」
「あら。見せたいものって、そのファットキャットみたいに膨らんだ鞄の中身のことかしら?」
「…………まあ、それは開けてからのお楽しみということで……いつもはこんな鞄じゃないんだよ、ほんとに……」

 そういうことにしといてあげる、とウインクをして言うローズに苦笑しつつ、セイアッドは彼――あるいは彼女――の私室へ向かう背中を追う。
 ふと後方に意識を傾けると、カラカラと糸を紡ぐ音や機織りの音、そして型紙を作るために線を引く音が聞こえてくる。裁縫師である母のもとで育ったセイアッドにとって、服を作るために生み出されるその音たちは揺籠にも似ていた。

「あら、どうしたの?」
「え、うん……その、実家を思い出して、懐かしいなって」

 セイアッドが足を止めたのに気づいて振り返ると、目の前の景色のさらに向こうを見ているような、遠い眼差しをしていることに気づく。
 今や英雄であり、一流の職人であり、異世界まで救ってきたという彼は時折、たったひとりで異郷にやってきた子どもとしての顔を見せる。
 そこにあるのは、どれほどの人から英雄と呼ばれ、希望の灯火として扱われようとも、糸を編み穏やかな時間を過ごすのが好きな普通の青年の姿だった。

「……あなたでもホームシックになるのねえ」
「! そ、そういうのじゃない! 早く中入ろ!」
「入ろって、私の部屋なんだけど……」

 そしてこの青年が、人前では『英雄』として在ろうと努めていることも知っている。
 だから、彼が強がりを見せるなら、見守りつつそれに乗ってやるのも大人としての優しさだ……ローズはそう考えつつ、私室に繋がる扉を開けるのだった。

「おぉ、すごい……!」
「散らかってて申し訳ないけど適当に座って。お茶淹れてくるから」

 ひとえに休憩室と言っても、そこはウルダハが誇る裁縫師ギルドマスターの根城である。理路整然とまでは言わずとも、さまざまな生地や仕事道具が整頓して置かれていた。
 机上にはおそらく描き途中であろうデザイン画や型紙が所狭しと重ねられているが、無造作という印象は受けない。
 エオルゼアどころか、この星に住まう裁縫師を目指す者であれば垂涎ものの一室だ。
 
「いいなぁ……俺、デザイン画は描けないから、こういうの見ると憧れる」
「……いつも思うけれど、どうしてそれでお洋服が作れるの……?」
「うーん……? 母さんの見よう見まねで覚えたから、俺もよく分からないんだよね。
 あとは人の体表面にあるエーテル量からなんとなくサイズ感を把握して、それに合うように縫っていくとできるっていうか……」
「何度聞いても理解できないわ、そのエーテル採寸法……ニメーヤ様はあなたを愛しすぎよねぇ、妬けちゃうわ。はいこれ、ローズヒップティー」
「ありがとう! いい香り……」

 カップを持ち上げればふわりと果実らしい香りが漂い、少しだけ口にすると甘酸っぱい味が舌に広がった。
 これだけ落ち着いた状態でお茶を飲むのはいつぶりだろう、とセイアッドは考える。
 原初世界に戻ってきてからも何かと問題が起きては駆り出され、余暇さえあれば製作や採集のためにほうぼうを飛んで回っているため、最後にゆっくりと腰を落ち着けた日が思い出せない。
 そも第一世界で罪喰いになりかけていたときは、身体が人として機能していたのかも怪しく、味覚すらほとんど消え失せていたのだ。
 今でこそ元通りにはなっているものの、何かを味わうという行為すら、彼にとっては遠い記憶となっていた。

「あなたのことだから、ちっとも休んでいないんじゃないかしらと思ってね。
 気づいてないかもしれないけれど、あなた身体がガチガチよ? そんな状態で針を扱っても疲れるだけだわ」
「そんなに……?」
「そんなによ。だから、そのお茶は私からのちょっとした気持ち。お客様用に買ったのではないから、出来合いのもので悪いけれど」
「……ありがとう、ローズさん」

 ローズの優しさを噛み締めながら、セイアッドはカップの水面へ映る自分の目元にふと気づく。
 思えば、ウルダハでの祝賀会にて大きな裏切りに遭ってから不眠がちになり、目の下に深い隈ができることも珍しいことではなくなった。
 戦おうとする肉体はエネルギーを欲して過食となり、喪ったものや背負ったものへのプレッシャーから拒食を起こして吐き戻すのを繰り返しているうち、いったい何が『普通』の状態なのか分からなくなっている。
 ローズが指摘するように、常に身体が緊張状態にあるのはそのためなのだろうと、セイアッドはどこか冷静に自身を分析していた。

「私に話せないことはたくさんあるだろうけれど……
 今はちょっとくらい、『裁縫が好きなただのあなた』のお話を聞かせてちょうだい。それこそ、異世界のお洋服のこととかね?」
「……!」

 弾かれたようにセイアッドが顔を上げれば、ローズは笑って頷いてみせる。すると彼は、足元に置いている鞄をおもむろにごそごそと探り始めた。

「あのね、ローズさんに見てもらいたくて、たくさんいろんな服をかき集めてきたんだ……! これは街の衛兵団に支給されてる装備で、こっちは裕福な人が着ていたドレスで!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 一個一個ゆっくり見ていきましょう、ね?」

 ごめんなさい、と言いつつも膨れた鞄からつぎつぎと服を取り出すセイアッドに、ローズは苦笑いを浮かべつつ並べられゆく異世界の洋服たちを眺めた。見たことのない素材もあれば、こちらの世界とそう変わりない材質の服もある。
 美しいとされるものは、世界が変わろうとも不変であることに驚きと感動を覚えながら、親に褒められた子どものように楽しげな姿を見せるセイアッドの話に耳を傾けた。
 そうしてウルダハの夜は、ゆっくりと更けていく。

「なるほど、どれもこれもよく出来てるわねえ」
「物資が限られた状態でここまで作ってたの、すごいよね。いまはどの場所もちょっとずつ余裕が出来てきたけど、世界そのものが元通りになったわけじゃないから……
 ああ、それでね、今回ローズさんに相談したいのがこれなんだ」

 生存の瀬戸際に立たされつつも、人々が手を取り合い生きてきた異郷の文化に感銘を受けていると、机の上にひとつの花束が置かれる。
 色とりどりの花を包む紙は、エオルゼアでよく見かけるような上等な包装紙ではない。
 何枚かが貼り合わされ、模様も人の手によって描かれているように見えるそれは、温かみを感じさせるものだった。

「向こうで訓練用の武器を作ったら、お礼に子どもたちから花束を貰ったんだ。
 旅の無事を祈っておまじないまで込めてくれたから、せっかくだしこの花を身につけていたくて……
 コサージュとかにするのが良いかなって思ったんだけど、どうしても良い案が浮かばないんだ」
「百合の花……もしかして、そっちの世界でも花言葉は似ていたりするのかしら?」
「さすがローズさん、鋭い! 十二神信仰があるわけじゃないから、ニメーヤリリーそのものではないんだけど。
 同じ『旅の無事を祈る』って意味がついてるんだって。すごいよね」
「まあ、素敵じゃない! それなら尚更身につけたいものね……」

 花束をじっと見ながらローズは考え込む。加工方法はいくらでも思いつくが、せっかくの大ぶりな花に人の手を入れるのは何となく憚られる。それゆえ、セイアッドもこの花をどうするべきか決めあぐねているのだろうと察した。
 ドライフラワーにするにしろ、樹脂でコーティングするにしろ、生花特有のやわらかさや瑞々しさを損ねてしまうことには変わりない。
 どうしたものかと悩んでいると、黄色の百合に目が留まる。

「……そうね。いっそ加工をするんじゃなく、そのままの姿を使ってみるというのはどうかしら?」

 どういう意味だと首をかしげるセイアッドに、ローズは花束から黄色い百合の花を一本引き抜いてみせた。そうして彼の耳上あたりに花をあてがうと、ローズがうんうんと納得したように頷く。

「この黄色いお花……あなたの目の色と合っていて素敵だわ。きっと選んだ子のセンスがとてもいいのね!
 変に装飾をつけるよりも、元の姿のまま使ってあげれば美しさが引き立つんじゃないかしら?」
「そのまま、かあ……考えもしなかった……」
「……何かを加工して生み出す職業柄忘れがちだけれど、本当に良いものは手を加えずとも美しいものよ。
 このお花には、それだけの魅力があるわ。あなたに似て、ね?」

 突如褒め言葉を差し込まれ、真面目にローズの話を聞いていたセイアッドが耳まで赤くした。
 今にも顔から湯気が出そうな彼は、弱々しい声で「突然褒めるのやめようよぉ……」と熱くなった頬を両手で押さえながら言う。
 あれだけ英雄として崇め称えられている彼が、褒める言葉ひとつでこうも表情を変えるとは。こちらの世界で、百合の花言葉のひとつに『純粋』という意味があることを思い出し、ローズはくすりと笑った。

「ごめんなさい、からかうつもりはなかったのよ。それでお花のことだけど、強度と長持ちさせる方法については錬金薬でどうにかなる範囲だと思うわ。
 こういう方法がある、というだけで強制はしないけれどね」
「ううん、すごく参考になった! それでね、申し訳ないけどもうひとつ相談があって……
 この花に併せて装備も新調したいなーって思ってるんだけど、これも全然良い案が浮かばないんだ……スランプってやつなのかなあ」

 心底不思議そうな顔でそう言うセイアッドに、ローズはやっぱり、とひとつの推論に確信を持つ。
 異世界から帰ってきたときの彼の表情、常に強張っているのがわかるその身体、休む暇もないほどにスケジュールを詰めている意味。

「……あなた、もしかして……とびっきりの失恋でもしたかしら?」

 その言葉を聞いたセイアッドが目を丸く開くと、すぐに表情を隠すようにうつむいた。机の上でぎゅっと握りしめた手は、小さく震えている。

「…………恋なんて、そんな綺麗なものじゃなかったけど……なんで、分かったの」
「あら、私は愛の伝道師よ? ……なんてね。職業柄、人生の節目に立ち会うことが多いから分かっちゃうのよ、そういうの。
 スケジュールを詰め込んで悩む暇を作らないっていうのも、スランプになるのも、あるあるだわ」

 ウチのギルドでもそういう子がいたのよねぇ、と冗談めかして言うローズの表情に、空気が重くならないようにしてくれているような配慮を感じて、セイアッドは少しだけ身体の力を抜いた。
 この人になら話しても良いかもしれないと、彼は心を守るために作った膜を少しずつ剥がしていくかのように、第一世界での出来事をぽつりぽつりと語り始める。
 ずっと敵対していた相手に協力関係を結ぶことを持ちかけられたこと。警戒心は持ちつつも、自分たちではどうしようもない問題に直面したとき、仲間を助けてもらったことをきっかけに惹かれてしまったこと……相手の性別こそは言わないでいるものの、ローズには伝わっているだろうし、それに奇異の目を向けないでくれることも、セイアッドには分かっている。
 そして、どれだけつらくて苦しい思いをしても、手を取りあえるだけの相手として認めてもらいたかったのだという胸のうちを明かした。
 それでも期待に応えることはできず、失望されてしまったことも話した。……彼の心底呆れたような、諦めすらも含んだ声を思い出すだけで、心臓をひと突きされたような痛みが走る。
 互いに譲れないものがあって、殺し合うしかなかった。最後には道を譲ってくれた彼に託されて――あの、クリスタルタワーでの決戦のときに、たった一度だけ彼のエーテルを感じたことも伝えた。

「……ということは、その相手って、星海に還ったあともあなたを助けてくれたってことよね?」
「そう……だとは思うんだけど……それだと、あまりにも都合が良すぎるかなって」
「都合が良い?」
「……あの人を、あの人が救おうとした未来ごと殺した俺を、どうして……今でも、どれだけ考えても分からなくって……
 少しでも立ち止まると、この命の意味を考えて、苦しくなる」
「だから、何も考えなくていいように、立ち止まる時間を作らないでいるのね? 自分のことを考える時間が苦しいから、人のために色んなことをして」

 こくり、と頷いて、セイアッドはそのまま顔を上げることなく口を閉ざす。彼の長い前髪が陰になり、輝かしい金色の瞳からは、いつもはそこにあるはずの光が失われていた。
 思っていたよりも複雑な経験をしてきた彼に、色恋沙汰では百戦錬磨の自負があるローズも、かける言葉が見つからないでいる。しかし、ひとつだけはっきりと分かることがあった。

(……お相手さん、ちゃんとこの子のことが大事だったんじゃないかしら?)

 星海に還った経験などないから勿論想像でしかないものの、肉体を失ってもなお彼を手助けするような真似をした理由は、愛以外にあるのだろうか。
 話を聞いているかぎり、セイアッドは自責の念に深く囚われていて、いまだに己の選択が許されたものではないと考えているらしい。だからどれだけ周りが諭そうとも、彼は自信を否定する思考を強めていくだけだろう。
 きっと彼の呪いを解けるのは、彼に託した本人しかいまい。

「星海に還った魂は、いずれ巡って……新たな命になるのよね」
「え、うん……」
「あのね、セイアッドちゃん。私が大きなスランプな陥ったとき、自然のものにヒントを貰おうとしたのよ」
「うん……?」

 急に振られた突拍子もない話に困惑しつつも、セイアッドは一応ローズの話に頷いてみる。話が重くなりすぎないよう配慮してくれる相手ではあるが、かといって無意味な話をして茶化すような人ではないことを分かっているからだ。
 不思議そうな顔をしつつも、目を見ながら話を待つセイアッドに、ローズは言葉を続ける。

「自然のものって、誰がデザインしたわけでもないのに美しいのよね。だから、そのときは人にとって一番身近な……母なる海に答えを求めたわ。
 それでいろいろ調べているうちに、お魚の生態にたどり着いたの。
 お魚って、人間のような暦を持っていないのに、月の満ち欠けによって決まった行動を取ったりするんですって。
 つまり、どれだけ昏い海のなかでも、月の光は輝くわ」

 ローズは話を真摯に聞くセイアッドの瞳を見つめながら、まさしく満月のようだと思った。
 たとえ世界から灯りが失われようとも、最後まで世界を見渡すように輝く月だ。

「それはきっと、星の海だって同じだわ。眠っていた魂が、いつか『次』へと巡るとき……行き先を示す光が必要になることも、もしかしたらあるかもしれない。
 だからね、セイアッドちゃんは、その人の魂が巡ってくるための灯火になってあげなさいな。それがいつか、あなたの命の意味にもなるわ」
「……灯火って、どうやって」
「あなた、次の装備をどうするか悩んでいたでしょう? それをとびっきりの、眩しいくらいの白にしてしまうのよ!
 真っ白なお月さまの光は、海の底にだって届くのだから」
「……届く、かな」
「ええ、絶対に。そうでなくともあなたみたいな光、無視できるはずがないもの。
 そしてきっと、巡り合ったその人に、直接見せてやりなさい。『あなたが譲ってくれた未来は、こんなにも美しいものだった』ってね!」

 ローズがそう言い切って、自分を信じろとばかりにウィンクをする。それを受けたセイアッドは、ようやく柔らかな表情を取り戻した。

「なんだか、ローズさんに相談してよかった。服だけじゃなくて、人生相談みたいになっちゃったけど」
「ふふ、私はいつだって人生相談も、恋バナだって歓迎よ?」
「恋バナは……これからできるか分からないけど。人に話したらちょっと楽になるんだって、初めて知ったから……これからも話しにきていい?」

 おずおずと、顔色を伺うように訊いてくるセイアッドは、まるで道に迷った幼子のようだ。
 その口ぶりから察するに、彼の辞書に相談のふた文字は日頃からないのだろうが、彼を取り巻く環境を思えばそれを咎められるようなものではない。
 英雄という立場は、人を孤独へと追い詰める。たとえ周囲に心強い仲間がいようとも、おいそれと弱ったところは見せたくないのだろう。心優しい彼のことだから、余計な心配をかけさせまいとしているのもローズは知っている。
 ローズだけではない。皆がその優しさを知っていて、だからこそ下手に触れられないのだ。
 この年若い英雄が、人のために自らのことを大切にできないのなら、ローズの答えはひとつだ。

「もちろん! むしろ嬉しいくらいよ。いつでもいらっしゃいな」
「うん。ありがとう……!」

 はにかむ彼の笑顔につられながら、その柔らかな髪を撫でる。ルガディン族の大きなてのひらに余るほどの小さな頭に触れながら、ローズはひとつ願いを込めた。

 (どうかこの子の行く道が、寂しいものでなくなりますように)

 
 ***

 
 夜がそろそろ終わりを告げて、東の空が淡い赤に染まり始めたころ。
 リムサ・ロミンサから出航した船は、昏い海をかき分けて、白い泡を後ろに残しながら北へ北へと進んでいく。
 冷たい風が潮の匂いとともに吹き抜けて、甲板に立つ青年の生白い頬を撫ぜる。それがさらさらと彼の黒髪をくすぐったかと思えば、いたずらのように去っていった。
 オールド・シャーレアンへと向かう英雄がまとうのは、一切の穢れのない白だ。そしてその頭部には、黄色い百合の花が、微かに甘い香りを風に乗せながら揺れている。
 ……死者には花を添えるものだが、その香りは星海にも届いたりするのだろうか。ふと思いついた考えは、しかし波音にさらわれて消えていく。
 祈りの込められた花の存在を左手で確かめながら、セイアッドは遠い空を見上げた。そこには名残惜しそうに、白い月が海の底を見つめている。
 自分の名前は、月にちなんで名付けられたという。そんな存在が、去るそのときまで慈しむかのように海を眺めているのを見ていたら、なんだか身近に思えてしまった。

(……会いたい人が、いるのかな)

 吟遊詩人のごときロマンチストな言葉が浮かんで、セイアッドはゆるゆると首をふった。つい感傷的になってしまうのは、きっと美しい朝焼けのせいだろう。
 長い永い夜を超えて、まぶしいほどの朝がくる。その光がきっと、自分に託してくれた人たちに届けばいいと、黎明に消えゆく星へと願う。
 そうしていつか、たどり着いたその先で――。
 あの日沈めた想いとともに、やがて流れは海へと注ぐ。