overture

漆黒のヴィランズ パッチ5.0 77クエストまでのネタバレがあります
※超える力に関する独自解釈・設定があります※

 

 

 南の方の、さらに向こう。すこしばかり小さな、さまざまな種族が手を取り合うひとつの島に、その少年は生まれました。
 名前はセイアッド・ウォード。むかしむかしのヒューラン族が使っていた古いことばで、月を意味する名前です。
 彼の両親は、かつて冒険者として生きていました。灯りもない道のなか、何度も何度もふたりを導いてくれたのは、夜空に輝くお月さまでした。その月明かりを見てふたりは、いつか子どもが生まれるようなことがあったら、その子の名前はこれにしようと、密かに思っていたのです。
 優しい月の光のような、暗闇のなかで誰かの道を照らせるような人になりますように――そんな両親の願いを聞き届けたかのように、月の名前の少年は、すくすくと優しい子に育っていきました。

「ママ、行ってくるね!」
「お願いね、気をつけるのよ」

 彼の母親は、突如見舞われた体質の変化によって、冒険者の道を諦めることになりました。エオルゼアではしばしば『エーテル酔い』と称される症状のせいで、彼女の得意としていた幻術が使えなくなってしまったのです。
 彼女とともに旅をしていたセイアッドの父親は、いっしょに隠居すると決めました。当然彼女は、自分に巻き込む形で冒険者をやめることは避けてほしくて反発しましたが、「大切な人と離れ離れになるのなら冒険をする意味がない」と言い聞かされ、このエオルゼアから遠く離れた南洋の島に腰を落ち着けることになりました。
 かつての旅の相棒であり、今や夫となった彼は、冒険者のころにウルダハで培った知識を活かして、各国と島産品の貿易をする商人として忙しない日々を送っています。夫に元気づけられた彼女は、自分にできることがしたいという思いひとつで、得意な裁縫技術を活かして洋服の生産をするようになったのです。
 互いが互いを想い、離れている時間があっても好き合っている……そんな二人を見ながら育ってきた少年は、人びとのあいだには当たり前に愛があるのだと、心から信じて疑いません。
 善良な両親のもとに生まれ、善良な人たちに囲まれて生きる。広くて狭い少年の世界に、悪意という二文字は、まるで存在しないのでした。

 この日彼は、体調を崩していた母親の代わりに買い物へ出かけました。クリスタルが多く存在するエオルゼアの地から離れて、エーテルの安定した南洋の島で暮らすようになったものの、時折島を襲いくる嵐によって水属性と風属性のエーテルが乱れると、たちまち彼女の調子は悪くなってしまいます。
 商人として忙しく島とその外を往復する父親の不在を補うように、セイアッドは母の力になりたくて、こうやっておつかいをこなす日々を過ごしていました。
 それとひとつ、彼には不思議な力がありました。夢で大きなクリスタルと流星群を見た日から、なぜか人の感情が、自分のことのように分かるようになったのです。
 のちに『超える力』と呼ばれているのを知ることになるその力は、幼い身には過ぎた力でした。とくに、相手がなにか悲しかったり、苦しかったり……『負の感情』を抱いたとき、決まって胸のあたりに黒いモヤのようなものが見えるようになりました。
 きっとこれは、自分以外のみんなにも見えるのだろうと思っていた彼でしたが、ある日母にこの話をしたら、不思議そうな顔をされたのちにとても心配をされてしまいました。同時に、母の胸にモヤが発生したのに驚いて、彼はとっさに「なんでもない、だいじょうぶ!」と言いました。
 するとたちまち、その黒いモヤが嘘のように消え去ったのを見て少年は気づきます。
 
(そっか。ママを不安にさせちゃうと黒いもやもやが出てくるけれど、だいじょうぶ、って言えば消えるんだ!)

 幼いセイアッドにとって、それはなにか、歴史に残る大発見をしたような気分でした。なにせ自分がそう言うだけで、魔法みたいに人の不安を消すことができるのです。
 それから彼は、人の負の感情を察知したときには、決まって明るく振舞うよう努めました。だからといって嘘をついているわけでも、人からそう在るよう強要されたわけでもありません。
 少年にとってそのように振舞うことは、いつのまにか当たり前となっていました。
 だからこの日、自分におつかいを頼み、玄関先で見送ってくれた母の胸に黒いモヤを見て、いつものように元気よく、明るく笑って家を出たのです。
 ――彼の笑顔を見てもなお、黒いモヤの消えない母の胸元に気付かずに。

 彼の母が体調を崩しているということは、それだけ天気が荒れていることを意味します。現に、幼いセイアッドの体を押すように、びゅうびゅうと強く風が吹いていました。
 海の向こうに見える雲も、なんだか黒くて重たげです。空気中の湿気を含んだ地面からは水の香りが匂いたち、海から届く潮風も、肌にまとわりつくようです。きっとこの場所も数時間後には大雨に見舞われてしまうだろうと、子どもでも分かるような天候でした。
 持たされたお気に入りの黄色い傘をぎゅっと握って、少年は歩きだします。常日頃から両親より冒険の思い出を語られているセイアッドにとって、外を一人で出歩くということは、冒険の疑似体験です。
 嵐が近づく中、誰も歩いていない道で傘をぶんぶんと振っていると、剣を持った勇者となったような気持ちになりました。太陽が皮膚を刺してうだるほどに暑い日でも、雪が吹きつけて凍えるように寒い日でも、少年はこうやって冒険者の真似事をしている時間が大好きでした。
 自分はきっといつか、両親のように冒険者として旅をするんだ――。いつからか抱いていたその夢を思えば、今日のような天気などへっちゃらです。むしろ、冒険者になったらもっと過酷な環境を旅することになるのだろうから、今のうちに特訓しておこう、とまで思っています。その話を両親にしたときは、ふたりの胸元にあのモヤが見えて、慌てて取りつくろうことになりましたが……。
 そうしているうちにたどり着いたのは、いつも買い物に来ている青果店です。その店主であるお爺さんとお婆さんは、いつもセイアッドを見ると、果物をひとつふたつオマケしながら島の外のお話をしてくれるので、少年はこのお店が大好きでした。

「おばあちゃん、こんにちは! お野菜買いにきたよ……あれ、おじいちゃんは?」

 いつものようにふたりに声を掛けようとして、そこにお爺さんの姿がないことに気付きます。店先に椅子を出して腰かけているお婆さんがセイアッドの声に気付くと、優しげな眉尻をさらに下げて言いました。

「あらセイくん、いらっしゃい。爺さんはちょっと咳がひどくてねぇ……在庫に薬草でもあれば煎じてやろうと思ったんだけれど、この天気だろう?
 今日は他の野菜すら、海の向こうから届かなくてねえ……仕方なく、寝てもらってるよ」

 セイアッドが店をぐるりと見渡すと、確かに並んでいる野菜の量が少ないことに気づきます。お婆さんも、お爺さんの体調が優れないためなのか、少しばかり元気がありません。
 しかもその胸元には、あの黒いモヤがありました。これはいけない、どうにかふたりには元気になってほしい。そう思って、少年は言いました。

「ねえ、その薬草……? って、このへんにはないの?」
「仕入れる以外で、かい? ここからちょっと行った先の……川を上がっていったところに滝つぼがあるだろう?
 昔はああいう、綺麗な水のある場所にあったりしたんだが、今はどうだか……」
「ってことは、すぐ行けるところだよね? ぼく、採りに行ってくる!」
「ま、待ちなさい! こんな天気だ、きっと数時間後には大嵐になるよ、危険さね」

 お婆さんは思わず立ち上がって、セイアッドを引き留めます。しかし彼の意志はかたく、今にも店の外へと走り出しそうです。

「あんたの身に何かあったら、お母さんになんて言えばいいんだい!」
「でもママは、ぼくにこうやっておつかいを頼んできたよ? だからだいじょうぶだよ、すぐ戻ってくるから!」
「ああ、ちょっと!」

 彼は雲間から出てきた太陽のようにぱあっと笑って、お婆さんに向かって一度頷くと、すぐさま駆けだしてしまいました。
 きっと薬草を採ってきて、お爺さんも元気になればお婆さんの心のモヤモヤも消える。そう思うと、少年の心は弾みます。
 走る最中、ふと空を見上げれば、黒く垂れこめた雲がこちらにどんどん近づいているのが分かりました。あの雲がやってくる前に戻ってこようと、セイアッドはさらに強く地面を蹴りました。

 

 ごうごう、ごうごう。
 より強さを増しながら吹きつける風が、少年の軽い体を揺らします。その風がつれてきた真っ黒い雲は、少年が思っていた以上に早く頭上を覆いはじめました。
 いつ雨が降り出してもおかしくない状況のなか、持っていた傘を支えにしながら、川の上流を目指します。
 
(ぜんぜん、すすめない……)

 なんとも運の悪いことに、進行方向とは真逆の向かい風が吹いていました。何度か砂埃が目に入って、そのたびに目をこすり足をとめていたので、ちっとも先に進めません。
 自ら薬草を採りにいくと言った手前、彼には引き返すという選択肢がありませんでしたが、すぐ戻るという言葉も嘘にしたくなくて、八方ふさがりになってしまいました。
 お婆さんは、全然帰ってこない自分に呆れているだろうか。母もきっと、おつかいすら果たせない自分に対して、今ごろ怒っているに違いない。
 ふたりがそんな人ではないと分かっているというのに、どんどん暗くなる空と強まる風が、セイアッドを不安の渦に巻き込んでいきました。
 少年が地面を見つめながら立ち尽くしていると、大地にぽつりぽつりと染みがつきはじめたことに気付きます。その染みがどんどん範囲を広げていったかと思えば、セイアッドは全身が濡れていることに気がつきます。堰を切ったように降りだした雨は、まるで今の彼の心情を表しているようでした。
 慌てて傘を差そうにも、強風に煽られてなかなか広げられません。このまま傘を開いても壊れてしまいそうだと悟り、少年は雨宿りができる場所を探そうと、長い前髪から水を滴らせながら、とぼとぼ歩き始めます。
 雑木林の向こうから、鳥たちがバタバタと音を立てて羽ばたいていきました。次いでどこからか獣の鳴く声が聞こえて、セイアッドは思わず身を縮めます。
 
(どうしよう、どうしよう)

 目的の滝つぼは、距離で言うなら目と鼻の先でした。しかしこんな天候では視界も足場も悪く、荒れたエーテルにざわつく生き物たちの存在を近くに感じて、恐怖で足が止まってしまいました。
 けれど少年は、冒険者を志す身です。こんなことではいけないと自分に活を入れて、せめて早く帰れるように頑張ろうと、ぬかるむ地面を踏みしめます。母が繕ってくれたきれいな洋服に、びちゃりと泥が跳ねました。
 そうして息を弾ませながら川に沿ってずんずんと進み、ついに上流へとたどり着きました。お婆さんが欲しがっていた薬草は、詳細を聞かずとも普段から読み込んでいる図鑑のおかげで知っています。冒険者としての知識を夜な夜な語ってくれた両親に感謝しつつ、滝のすぐそばに行こうとして――目的地に来たことで気が抜けてしまったのでしょう。
 少年は、河原のつるつるとした岩に足を滑らせて、盛大に川の中へと転んでいってしまいました。

「いっ……たぁ…………」

 幸いにも川は浅く、流されることは避けられましたが、その代わり川底の石によって膝と手のひらを擦りむいてしまいました。
 ただでさえ大雨の中を歩いてずぶ濡れになっていたところに、冷え切った川の水が少年の体温を奪っていきます。しかし反対に、擦りむいた場所は次第に熱を持って、その痛みをずきずきと少年に伝えてきました。
 こんな状況では薬草探しどころではありません。川からどうにか這い上がって周りを見渡すと、近くの大樹に洞穴ができていることに気がつきます。
 痛む足を引きずりながら洞穴に向かい、その中で腰を下ろせば、嵐に襲われる外界から切り離されたような心地になりました。それと同時にセイアッドは、まるで世界にひとり取り残されたかのような不安感に襲われてしまいました。
 ずっと我慢していた涙がこぼれる前に、少年はぐっしょりと濡れてしまった鞄の中をごそごそと探し始めます。薄暗くて見えづらい洞穴の内で、手探りで鞄をまさぐれば、こつんと何かが手に当たる感触がありました。
 セイアッドは、手のひらの傷の痛みに顔をしかめながら目的のものを拾い上げます。そしてその手には、きらきらと光るトパーズが握られていました。

「……カーバンクル、きて」

 こつん、とおでこを宝石にくっつけながらエーテルを流すと、たちまち暗い洞穴の中に橙色の光があふれます。次いでその中から、耳と尻尾の大きな生き物が、高らかに鳴き声を上げながら生まれました。
 カーバンクル・トパーズと呼ばれるこの魔法生物は、少年の昔からの友だちです。元冒険者の両親が思い出の武具を保管していた倉庫にこっそり忍び込んだとき、うっかり宝石にエーテルを流し込んで召喚してしまったのをきっかけに、護身用になるからと宝石を持たされたのが始まりでした。
 父が仕事のため島の外へ赴き、母がエーテル酔いで臥せっているとき、一人っ子で寂しがりの彼は決まってカーバンクルと一緒に寝ていました。カーバンクルもまた召喚者である少年にひどく懐き、まるでひとりと一匹は兄弟のように、ともに育っていきました。
 セイアッドは胸の不安を払拭するべくカーバンクルをぎゅっと抱きしめて、ふわふわの背中を撫でようとして、自らの手のひらに血が滲んでいることに気づきます。そのまま撫でたら手が痛いというのもありますが、大事な相棒を汚してしまうと思うと、どうしても撫でられなくなってしまいました。
 彼の揺らいだエーテルを察知したのか、カーバンクルは細くキュイ、とひと鳴きして、少年のまるい頬をぺろりと舐めます。その健気な行いは、気丈にふるまっていた少年の涙腺を決壊させる決定打となりました。
 ひとりの心細さ、自然の恐ろしさ、果たせなかったお婆さんとの約束、家で待っているであろう母親への申し訳なさ、擦りむいた手のひらと膝の痛みがないまぜになって、セイアッドは大声をあげてわんわんと泣いてしまいました。
 彼のそんな泣き声も、外の雨と風の音にかき消されて、誰の耳にも届くことはありませんでした。

 *
 
 ――大きな大きなクリスタルが、目の前に浮いていました。
 そのクリスタルは、なんだか悲しそうな声で、こちらに語ってくるのです。
 いったい何を言っているのかはよく聞き取れませんでしたが、それでもその声を聞いていると、どうにも悲しい気持ちになってしまいます。

「ねえ、ぼくにできることはないの? ぼくは、あなたを助けたい――」

 声の主に向かって手を伸ばそうとしても、その距離は縮まりません。むしろだんだん遠ざかっていって、しまいには声すら聞こえなくなりました。
 いつかあの声の主と、ちゃんと話してみたいと思ってはいるけれど、それは叶いそうにありません。
 そうして、時折見るこの不思議な夢は、いつもこのように幕を閉じるのでした。

 *

 ぺしぺし、と何かが顔に当たる感覚がして、少年はその目を覚まします。
 お月さまのようにまん丸い、金色の瞳を何度か瞬かせると、彼の瞳と同じ色をした何かが眼前いっぱいに広がりました。手を伸ばして感触を確かめるとふわふわと温かく、少年はそれが相棒のカーバンクルであることに気付きます。
 手のひらにぴりりと走った痛みが、寝ぼけていた彼の意識をはっきりとさせました。少年は、さんざん泣いたあと相棒の温もりに安心して眠ってしまったようです。
 そして寝ていた顔を叩いたのは、カーバンクルの小さな手でした。なにやら伝えたいことがあるようで、セイアッドが起きてからというもの、身を起こした彼の周りをぐるぐると歩きまわっています。

「どうしたの、カーバンクル……?」
「キュィ~」

 洞穴の外を見たカーバンクルにつられて顔をそちらに向けると、薄く光が差し込んでいました。はっとしたように顔を外に出すと、分厚い雲の隙間から、すこしだけ太陽が顔をのぞかせています。
 辺りを見渡すと、風は嘘のようにぴたりとやんで、雨に濡れた草からは雫が滴り落ちました。陽の光を反射して、きらきらと輝きながら落ちていくそれに、少年はうれしそうに目を細めました。

「すごい、さっきまで雨だったのに! 晴れた、晴れたよ!」

 転んだときの傷の痛みも忘れて、セイアッドは洞穴から駆けだしました。さっきまで、と少年は言いましたが、そのじつ数時間ほど意識を失っていたことを彼は知りません。
 探していた薬草を見つければ、手のひらの傷の痛みに耐えながらそれを引き抜きました。後ろからついてきたカーバンクルに薬草を見せれば、「これでおじいちゃんの咳も治るよ!」と嬉々として語ります。
 言葉を解さないカーバンクルには、主の持つ草がなんなのかはまるで分かりませんでしたが、心からうれしそうに笑う彼とそのエーテルを感じ取り、キュイ!と甲高くひと鳴きするのでした。

 
 へとへとの体で来た道を戻り、お婆さんのお店の屋根が見えると、少年は張り詰めていた息を吐き出しました。
 先ほどの晴れ間はどこへやら、再び灰色の雲が太陽を隠してしまいました。遠くからは雷の音が微かに聞こえ、ふたたび風が木々を揺らし始めます。
 また雨が降り出す前に戻ってこれてよかったと、少年は笑いながら店に駆け寄り――そうして、その前にいる人物に気付きます。

「あ、ママ……」

 家で寝ていたはずの彼女は、あまりに帰らない息子を案じて、ここまでやってきてしまったようです。
 お婆さんの隣でこちらを見る母の胸に飛び込もうとして、彼女の胸元の黒いモヤが、さらにその色を濃くしていることにセイアッドは気づきました。
 彼女のここまでの負の感情を、少年は見たことがありません。それが急に恐ろしくなって、ひどく怒られるのではないかと思い、思わず足を止めてしまいます。
 
「ママ、ごめんなさい、ごめんなさい……! ぼく、ぼくは……おじいちゃんを助けたくって、おばあちゃんに喜んでほしくて……
 ぼくはだいじょうぶだから、だから……!」
 
 震えながら謝る彼の元に、母はふらつきながらも近づきます。
 叩かれるか、もしかすると殴られるのだろうか――そう覚悟しながらぎゅっと目を瞑る彼に、しかし思っていた衝撃はやってきません。
 ふわりと柔らかくて温かい感触におそるおそる目を開けると、母は少年を抱きしめて、肩を震わせながら大粒の涙を流していました。

「こんなに怪我をして、体も冷やして……なのにどうしてあなたは、大丈夫なんて言うの……!」

 母の言っていることの意味が、セイアッドには分かりませんでした。
 確かに怪我は痛いし、嵐のなか一人になって怖かったけれど、こうやって無事に戻ってきたのだから大丈夫だ、と言いたかったのです。
 せっかく薬草も取ってきたのに、隣で母を心配そうに見つめるお婆さんからも黒いモヤが取れなくて、少年はさらに不安になってしまいました。
 
「ぼくがだいじょうぶって言ったら、ママたちは安心するでしょう? なのに、なんで泣いてるの?」

 その言葉に、母は信じられないものを見たような目で我が子を見つめました。
 顔も服も泥だらけにして、できて間もない傷は痛々しいというのに輝きを失わないその瞳が、恐ろしく感じてしまったのです。
 母はもう一度優しく少年を抱きしめて、ひとつひとつの言葉を言い聞かせるように、その子どもに語り掛けました。

「私は……あなたに、嘘をついてほしくないの。痛いなら痛いと言って、辛いなら辛いって言って欲しいの。
 あなたの本当の心が聞けたら、私たちは安心するから……どうか、どうかお母さんには、そんなことを言わないで……」

 そうやって祈るように言う母の姿が悲しくて、少年は泣いてしまいました。
 けれど、自分が大丈夫だと思っているのは本当のことなのに、どうしてそれが嘘と言われてしまったのか、セイアッドにはいくら考えても分かりませんでした。


 
 ***

 
「あー………………………………」

 長く息を吐き出すように間延びした声を上げながら、セイアッドは目を覚ます。子どものころに母を泣かせてしまった記憶が夢によって引きずり出されて、寝起きの感覚は最悪だ。
 思い返してみれば、あの負の感情が黒いモヤに見える現象は、成長するにつれて無くなったように思う。困っている人を見分けられるのはその頃の名残ではあるのだろうが、今やもっと特異な出来事が自身の体に降りかかっているので、今の今まで忘れていたのだ。
 ペンダント居住館の私室には朝の光がやわらかく差し込み、おそらく雲雀であろう鳴き声が青い空の下に響き渡る。第一世界でも朝に聴く鳥の声は同じなんだなあ、とぼんやりと思いながら身を起こして、青年は目を擦った。
 そうして何度擦っても消えない白んだ視界に重いため息をつきつつ、ベッドから降りて戦闘着を身に着ける。
 ――4体目の大罪喰いを倒してからというもの、明らかに体がおかしい。眩しい視界もそうであるし、体の自由がきかず、内側から絶えずなにかが割れるような音がする。
 耳を塞ごうが聞こえるそれは睡眠時間と精神をじわじわと削り、不安を助長させていた。
 さらに、3体目を倒した時からなんとなく予兆はあったが、本格的に味覚が消えたこともあって食事も喉を通らない。
 自分が気づいていないだけで、他にもなにか体に影響が出ているかもしれない。そう思ってひとまず休暇をもらうことにしたものの、すべての大罪喰いを倒し切れていないだけに気持ちが落ち着かない。
 これ以上は仲間たちに迷惑をかけられないと思うと、どうしようもない焦燥感に襲われた。
 対処法はわからないけれど、早く体を治さねば。原初世界に戻って、なにか本でも漁ってみようか――そうなると、あと2日ほどは休みがほしい。それを水晶公たちに伝えるべく、部屋の重たい扉を開く。……この扉が重く感じるようになったのも、果たしていつごろからだっただろうか。
 よろよろと私室から出てきた青年の顔を見て、居住館の管理人が心配そうに声を掛けようとしてきたが、英雄は「大丈夫」と言いながら続く言葉を遮った。
 せめて外に出る時くらいはちゃんとしていないと……と反省しながら気合を入れ直して居住館を出ると、横から思いもよらぬ声が飛び出してくる。

「大丈夫、ねぇ……当世の英雄様は、よほど嘘が下手くそと見える」

 居住館の入り口、陽の差し込まないそこに、エメトセルクが寄りかかりながら立っていた。

「あ、ええと……おはよう、エメトセルク」
「なんだ、耳までダメになったのか? 少なくとも今の言葉は、挨拶のつもりじゃあなかったんだが」

 朝の光すら嫌悪するように目を細めたエメトセルクは、苦虫を嚙み潰したような顔をしてセイアッドを見つめる。
 その視線が気まずくて、青年は笑いながら目を逸らしつつ、彼が先ほど『耳までダメになった』と言った真意について考えを巡らせた。
 ……きっとこの男は、体の機能が少しずつ壊れて行っていることに気付いている。元々敵対していた彼らアシエンにとって、活動を邪魔する英雄が自滅していくのは願ってもいないチャンスだろう。
 だとするならば、わざわざこんな朝早くから、調子の悪いこの体を嘲笑しにきたのだろうか。その割にはこちらへの敵愾心は感じられないので、首を捻りつつ訊いてみる。
 
「あのさ、単刀直入に聞くけど、アシエン的に見て俺の体って今どうなの?」
「歯に衣着せるということを知らんのか、お前は。まあ、そうだな……どう、と訊かれれば、様子見といったところか」
「うーん、つまり……経過観察? 的な?」
「なりそこないにしては理解が早いじゃないか。統合の成果か?」
「……はいともいいえとも言えないんだけど、それ……」

 喉の奥でくつくつと笑うエメトセルクを見ながら、やはり彼を敵だとは思えない、思いたくない、と改めてセイアッドは思う。
 地脈をさまよっていたヤ・シュトラを助けてくれたのも、彼の言う『完璧な人』からすれば造作もないことのかもしれない。けれど、自分たちの仲間を助けようとしてくれたその気持ちが、青年にとっては嬉しかったのだ。
 あのときのことを思い出して、セイアッドの口角が上がる。それが面白くなかったのか、今度はエメトセルクが彼から目を逸らす番だった。
 
「なにをニヤけているんだ、気味の悪い! そうやって笑っている余裕があるのなら、さっさと最後の大罪喰いを倒しに行きたまえよ」
「分かってるよ……でも、その、ちょっと休みがほしくて。あと2日くらい待ってくれるかな」
「なるほど、英雄様は余暇の片手間で大罪喰い退治ができるほど余裕であらせられる、と?」
「そういうわけじゃない! ……だけど、ほら。あなたには分かるでしょ」

 様子見って言うけれど、俺の体、そろそろダメかもしれないからさ。
 まるで怖くないと思わせるように、声を震わせずに言えただろうか。そう願いつつ、笑いながらうつむくセイアッドに、エメトセルクは目を閉じるのを返答とした。
 
「……そうだ! この体のこと分かってるなら、ヤ・シュトラさんには言わないでよ」
「ヤ・シュトラ……ああ、あの魔女のことか。逆に訊くが、なぜ私があいつに、お前なんぞの調子を伝えると思ったんだ」
「え、仲良いんじゃないの……?」
「誰と、誰が、だ!」
「エメトセルクと、ヤ・シュトラさんが! だってこの前あの人言ってたよ。一晩中あの壁画のことについて訊いて、すごく楽しかったって」
「…………ああ、あのときのか……」

 ラケティカ大森林から闇の戦士一行が帰ってきた日、気まぐれに姿を見せていたエメトセルクは、うっかりヤ・シュトラに捕まっていたらしい。
 それから分かたれる前の世界について、あの壁画を描いた第一世界の昔の人々について散々質問攻めをしていたらしく、翌日会った彼女は肌がつやつやとしていた。
 一晩ものあいだ質問が途切れなかったくらい、話の種がある彼女を羨ましく思ったのも、セイアッドの記憶に新しい。

「長いことつきあってくれたって聞いたから、てっきり仲が良いのかと」
「……これだから、短絡的な思考のなりそこないは。統合の成果などと口走ってしまった自分が、まったく厭になる……
 あの女、無視を決め込むとかえって厄介なタイプだからな。先手を打って満足させてやった、というだけだ」
「そ、そうなんだ……」
「さて、これ以上時間を無駄にするのもおしまいだ。私は別に、自分からお前のお仲間とお喋りするような趣味はない」

 なにか訊かれれば答えはするがな、とかつて青年に言ったのと似たようなことを言って、エメトセルクは遠くを見た。
 そう、彼は質問には返してくれるのだ。それならば、とセイアッドは意を決して、うつむきながら問いかける。
 
「ねえ、エメトセルク」
「なんだ」
「次の大罪喰いを倒しても、俺は大丈夫なのかな」
「さあ? それはお前の頑張り次第だろう」
「この体の症状、いつか治るのかな」
「さてな」
「……エメトセルク。俺、このままだと、罪喰いになっちゃうのかな?」
「…………」
 
 訊けば答えると言った彼が、何も答えないことが答えだった。
 今、彼がどんな顔をしているのか、セイアッドには見る勇気がなかった。嗤っているのか、嘲っているのか、それとも。
 ふたりのあいだに訪れた沈黙が怖くなって、相手と目も合わせないままに英雄は言う。

「ごめん、変な質問した! 俺は大丈夫だから、その、また今度ね。絶対に大罪喰いは倒すから……!」

 これから水晶公へ会いに行くのだろう、星見の間の方へと走り去る英雄の背中を、エメトセルクは横目で見る。
 男がパチリと指を鳴らせば、そこには影ひとつ残らなかった。